不能說話的大學講師
無法活動的公司社長
這位社長兼大學講師的青年名叫畠山亮夏。1999年生於大阪的他在出生10個月後,被診斷患有重度小兒麻痺症。
當時,亮夏的母親20歲,父親23歲。在家人的支援以及看護人員的幫助下,亮夏順利長大並讀完高中。在自己19歲生日的第二天設立了自己的公司——“HI FIVE”,一躍成為法人代表。在20歲成年之際,兼有社長和大學講師的雙重身份。
“不能說話,不能行動”。這將成為需要一輩子去克服的障礙,而畠山亮夏卻將其變為實現自己人生價值的武器。
剛出生的亮夏與其他健康的嬰兒並無不同,但是漸漸地,亮夏的母親發現小亮夏的腦袋總是歪在一旁,也不能像其他嬰兒那樣喝牛奶,前去醫院檢查被告知亮夏患有小兒麻痺症。天降噩耗,亮夏的媽媽卻反而鬆了一口氣。她認為既然已經知道孩子患的是什麼疾病的話,那隻要積極做康復治療就好了,至少知道下一步該做什麼。
1歳になっても彼はミルクの飲みも悪く、一日中 泣いていた。眠りの淺い彼を一晩中抱いて夜を過ごす毎日に私は體力的、精神的にも追いつめられてい たが「良い妻、良い母親でなければならない、自分 一人で育てなければ」という強い思い込みから夫や両親へSOSを出すことができなかった。
他到了1歲還不能好好喝牛奶,我每天都在以淚洗面。他的睡眠也很淺,我一整晚都要抱著他,這也導致我的體力和精力都很差。我一直在強烈暗示自己“要做一個好妻子、好媽媽,必須自己一個人好好撫養他”,所以也沒能向丈夫和父母求助。
しかし、ついに體調を崩し、義父母へ預けざるを得なくなった彼が1歳2か月を過ぎたある日。義母から入った1 本の電話で狀況が一変した。それは 「亮夏が笑った」 と伝える電話だった。「なぜ母親である私ではなく義母なんだ」という複雑さはあったものの、「一生 笑わない」と言われていた彼が笑ったことに衝撃を受けた。そして「何人も子どもの可能性を決めつけることはできないんだ」という思いが心に宿った。
但最終我還是生病了,不得不把孩子交給公公婆婆撫養,當時亮夏才1歲2個月。婆婆打來的一通電話徹底改變了當時的情況。她在電話裡說“亮夏笑了”。我的心情很複雜,心想“為什麼不是我這個母親(看到笑容),而是婆婆”,但同時也對亮夏笑了這件事感到很震驚,因為曾有人說過他這輩子都不會笑。而且,我也在心裡記下“沒有任何人能夠決定一個孩子的可能性”。
誰しも「人生のターニングポイント」を一つや二つ持っていると思うが、彼にもある。その一つは妹 が初めてつかまり立ちをした瞬間である。その姿を見た彼は大きく目を見開いていた。それは絵にかいたような「びっくりした」顔だった。
誰都有一兩個人生的轉折點,他也是如此。其中之一便是妹妹第一次站起來的那一刻。他看到妹妹站起來後睜大了眼睛。他震驚的表情得就像畫裡描繪的那樣。
私はそんな彼に「びっくりしているの」と尋ねてみた。彼は「はい」 と小さく答え、「歩けると思ってなかった。自分が歩けないから、妹も當然歩けないと思っていた」と言っ
た。
我問他“很震驚吧”他小聲回答道“是的”,“沒想到她可以走路。我以為妹妹會和我一樣不能走路”。
私は「そうだよ、この家族で歩けないのはあんただけや」とはっきり伝え、「でもそれはあかんことか」と続けた。「義足の人、欠損している人、車いすの人。それぞれの『歩く』がある。確かに足で歩いている人よりも少ないかもしれへん。でもそれはあかんのか。少なかったらあかんのか」彼は「いい」と答えた。
我直接說“是啊,家裡只有你不能走路”,又補充道“但這不行嗎”。“裝假肢的人、殘疾的人、坐輪椅的人,他們都有各自的‘走路方法’。當然,比起用腳走路的人,這類人可能確實是少數。但這不可以嗎?因為人少所以不可以嗎?”。他回答說“可以”。
「いいな。多いからいいとか少ないからあかんとかじゃない。それぞれや。でもな、人と違うからこそ見えることがあるんとちがうか。少ないからこそ気づくことがあるんとちがうか。きっと君だからできることがあるんとちがうか。それを一緒に探していこう」私の言葉に彼は「はい」と力強く答えた。
小學4年生の冬、彼は初めて自分の障がいと向き合った。
“聽好哦,並不是說人多就是正確的,人少就是錯誤的,各自都有各自(存在的道理)。不過,正因為和其他人不同,你才能看到更多東西;正因為是少數,你才能發現更多。一定有些事是隻有你能做的。我們一起摸索吧”。他用力地回答我“好”。
小學4年級的冬天,他第一次和自己的疾病和解。
成長路上,亮夏從未放棄過康復訓練,不斷挑戰自己。
有一天偶然在電視上看到殘障人士的騎馬治療法,便和媽媽表示自己也想騎馬。儘管媽媽對他的決定感到震驚,但還是全力支援。由於擔心安全問題,媽媽反覆和馬場溝通協調,約定好騎馬訓練的日子。亮夏開心地結束了訓練,媽媽也鬆了一口氣。
「乗るまでは心配だったけれど乗れて嬉しかった。」
“騎之前我還很擔心,看到他能騎馬我也很開心”
之後,小學的任課老師建議亮夏在學會騎馬之後可以學習騎腳踏車,亮夏也一口答應。當天回到家以後,手上腿上淨是傷口,衣服也變得髒兮兮,但他的臉上卻滿是笑容,洋溢著成就感。 到了高中,亮夏更是提出了一個大膽的想法,挑戰獨自去京都旅行。
そうして冬に差しかかろうとしていた11月、大阪市內にある最寄りの駅から京都嵐山への一人旅を決行した。沢山の人との出會いを経て、無事その日の 18時半ごろ帰ってきた。一緒に連れ帰ってくれた2 人の女性のうち1人が泣いていた。彼女は鼻を真っ赤にし私と彼にこう言った。「ありがとう。私は今の仕事が向いてないんじゃないか、もう辭めようかと考えていた。でも亮夏さんに出會って、まだ自分にもできることがあるんじゃないかと思えた」と。
在冬天即將到來的11月,他決定從大阪市內最近的車站出發,獨自去京都嵐山旅行。他一路上見到了許許多多形形色色的人,在當天18點半左右平安回家。與他同行的還有兩位女性,其中一位女性哭了。她哭得鼻子通紅,對我和亮夏說“謝謝你們。我覺得自己不適合現在這份工作,想要辭職。但是遇見了亮夏後,我覺得自己還能做些什麼”。
帰宅後「彼女の心に燈をともせたのは、君だったから。君にしかできないことの一つだよね」そんな會話をした。今回の旅は周囲の大きな反対があった。「何かあったらどうするのか」「どうして守ってあげないのか」と雙方の両親や父親も反対していた。
回家以後,我對亮夏說“是你點燃了她內心的光。這就是一件只有你能做到的事”。這次旅行也遭到身邊其他人的強烈反對。雙方父母都認為“如果出點事怎麼辦”“你為什麼不好好保護他”。
しかし、私が出した結論は「彼の身體ではなく、やってみたい心を守る」ことだった。結果この一人旅は彼にとって大きな自信となり、今も彼の心の中で 『勇気』となって生き続けている。
然而,我的想法是“我要守護的不是他的身體,而是他想要嘗試的那顆心”。最後,這場旅行給了他極大的自信,在他的心裡化為“勇氣”留存至今。
即將高中畢業的亮夏也面臨著今後如何發展的問題。
通常來說,小兒麻痺症患者在接受過高中教育後會去福利機構工作,或者住進福利設施生活,而亮夏卻有他自己想做的事。
他決定去福利機構和相關大學“授課”,讓看護人員和學生們親自接觸殘障人士,實時反饋患者的真實感受,幫助他們獲取更加豐富的實踐經驗。
亮夏並不認為自己的身體缺陷是障礙,而是將其作為武器,勇敢面對生活。
先生の言葉を受け2人で考えた.「話せないって本當にマイナスなのか」「話せないことを価値にはできないのか」そしてうまれたのが、上手く話せない自分を支援施設や福祉系學校に派遣し身體介護やコミュニケーションの學びに変えてもらう『生きる教科書プロジェクト』=イキプロ。だった。
聽了老師的話我和亮夏開始思考“不會講話真的是缺點嗎”“能否讓不會講話變得更有價值”。後來,我們想到把不能講話的亮夏送去援助機構和福利學校,讓他們學習身體護理以及交流方式,也就是《活著的教科書專案》。
そしてゲストスピーカーの活動をきっかけに大阪健康福祉短期大學介護福祉學科の學生と出會い、授業を構築する中、次第に「自分の身體」から「自分の言葉」で學びを屆けたいと変化が生まれた。會話もままならない彼がなぜ「言葉」なのか。質問を繰り返し出た答えは「伝わりにくいからこそ,伝わることがある」。彼は仕事を通して、自分の人との違いを誇りに感じられるようになっていた。
藉著特邀演講者的機會,亮夏見到了大阪健康福祉短期大學看護福祉學科的學生。在授課的過程中,他逐漸希望從利用“自己的身體”轉變為利用“自己的語言”來傳遞知識。根本不會講話的他為什麼要選擇“語言”?反覆詢問過後,他的回答是“正因為難以言說,才更能傳達出某些東西”。透過這份工作,他逐漸對自己與他人的不同而感到驕傲。
正如媽媽所言,亮夏正在做著一份只有他能完成的工作。這份工作的意義不僅在於讓亮夏實現自己的人生價值,也在於為看護人員及學生們提供直接經驗,從而有效幫助到更多的殘障人士。而受其鼓勵的不僅僅是同樣的患者,還有千千萬萬對人生感到困惑感到無助感到絕望的人們,是亮夏的存在,點燃了一束又一束心靈之光。